597日の続きものです。
=597日A=
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もし彼があの冷たい惑星にただ独りで、597日間の一日を今も尚過ごしていると言うのなら、自分はそれを共有していった方が、良いと、思っている。
しかし、それに似た一片しか味わったことの無い自分は、彼の隣人となる事が出来るだろうか。
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判別できるようになった地平線から視線を戻せば、そこはリーネの村ではなかった。
見たことの無い街、記憶を辿れば思い出せそうな場所なのに、今では全く思い出せない。世界を旅した時でさえ、この光景は見てないもののような、そんな気がする。
空は雲が厚く覆ってしまい、朝か夜かも解らず、白黒の世界を思わせる程薄暗い。冷たく湿った空気が頬を撫で、なんとも寒く感じる。
広い街には見回してみる限り誰もいなかった、もう少し探しまわってみようとしたが、やはり誰一人居そうにない気がしたし、何より膝下を浸してくる街全体を覆う水張りが、衣服や靴の中を濡らして気持ち悪く、そんな気分にはなれなかった。
どんなに見回しても延々と続く水面と、崩れかけ、苔むして蔦が絡まり、元の姿が解らない建物ばかりで、かなり気味が悪かった。
突然、胸がとんでもない不安感に締め付けられ、苦しくなる。押し寄せた慣れない孤独感が自分を困惑させた。
酷く苦しい、ここは何処なんだろうか。早くここから離れたい。
そう思うと、考えるより先に無意識に体が動いた。水の抵抗を受けながらも必死に重い足を引き摺って歩を進める、しかし広い街に果てなんか無くて、何度も同じ場所に戻って来た。重なるのは疲労ばかりで、終いには歩く事さえ、やめてしまった。
何度も戻ってきたこの場所、少しでも身体を休ませようと、目の前の大きな屋敷に近付いた。少々薄気味悪いが、高さのあるこの家なら二階に水は及んでいない筈だ。低い足場を数段上がり、扉を塞ぐ蔦を無理矢理引き払うと、腐敗して嫌な音がする扉を力任せに開いた。
家の中にはいると、膝上まであったはずの水かさは、靴の踝くらいまでに減り、比較的動きやすくなった。反面、水から解放され濡れきった衣服は先程よりも気持ち悪く感じた。
昔、誰かが住んでいたのだろうか、そこには自分の家と同じ様に、台所や机があった。
しかし家中の物々が腐ってくたびれたこの家と自分の家を比較するにはあまりに差がありすぎる。少なくとも自分の家ならば、表示が掠れていつの物か解らないものを台所の棚には置かないし、隙間が空いている冷蔵庫から異臭はしない。並べられた家具だって色が解らなくなるほど黒くしないし、足場もこんなに軋まないのだ。
この家の立派なところと言えば、自分の家よりも、何倍も大きいことくらいだった。
沈んだまま忘れられたみたいな、捨てられたみたいなこの場所は、音さえ水に吸収されていくようだった。
怖くはないのに、不安で仕方なくて声がでない。しかし疲れた身体を思い出し、靴の中の水も抜かずに奥の階段をゆっくり上っていった。
不安定に崩れかけた階段は、足場が欠けて危険な上に、段差が不規則になってしまっていて、吐き気さえもよおす。
やっと階段を上りきると、水はもう足を沈めなかった。しかし、歩く度に床に敷かれた元の色が解らない絨毯の踏みつけた部分から、じわりと黒い水が湧き出すのがなんとも不愉快だった。
いくつも部屋が並んだ廊下。ふと、扉が隙間を開けている部屋を見つけ、どんな感情を抱くでもなく、そっと歩み寄る。
錆びたドアノブに手を掛け、慎重に扉を引く。入り口と同じように嫌な音を立てたそれは、思っていたよりも簡単に開いた。
窓からほの暗い光が差し込むその部屋は、他の部屋と同じくらい疲れきっている。強いて違うことと言えば、部屋の端に何か、小さく蠢くものがある事だ。
不審に思って、少しだけ奥へ歩み行って、慣れない暗闇に目を細める。薄暗い闇の狭間から全体像を探りだすと、すぐにそれが何かを理解して、はっと息をのんだ。
そこにいたのは、椅子に腰かけて背を丸め、必死に机に向かう幼い少年だった。およそ10歳程だろうか、手の中にある筆記具を動かす度に、漆黒の髪が小刻みに揺れている。
こんな街に、しかもこんな場所に人が居たことに心底驚愕した。もしや幽霊か何かなのでは、とも考えたが、健康的な桃色の頬はそれとは結び付け難い。
薄暗く寒い、腐りきったこの部屋で、美しく真っ白で、汚れ一つない高貴な服を着た少年の姿は、あまりにも絵にならなかった。
少年が机から目を離し、背筋を伸ばした。その瞬間、微かに見えた見覚えのある少年の顔立ちに、スタンは声にならない悲鳴を上げそうになるのを必死に飲み込んだ。
「リオ、ン・・・?」
出ない声を必死で、慎重に絞り出す。名前を呼ばれた幼い少年は、肩を小さくぴくりと揺らした。しかし特にこちらに目線を移すでもなく、今まで机に敷いていた紙を隣の束に乗せると、がた、と立ち上がった。
そのまま机から離れると、たった今スタンが入ってきた扉へと向かう。部屋から出るのだろうかと、スタンが扉の前から急いで退いた。少年はそのまま扉を開き、嫌な音も、客人さえも知った風もなさ気に廊下へ出る。
結局、少年の目は全くこちらを向かなかった。しかし目の前を通って行った少年の顔は、確かにあの海底洞窟に沈んだ、親友の、リオンでしかなかった。自分の知っている彼よりも酷く幼いが、自分の記憶がそうである事を自然と認識していた。
彼には、自分の姿は見えないのだろうか。行ってしまった少年の目は、まっすぐ前こそ見ていたものの、何を見ているのかは解らなかった。
しかし、自分が名を呼べば声はあらずとも反応を示した。存在に気づいていない筈はない、が、彼から自分がどう見えているのかは解らなかった。
ここに立ち尽くしていてもしょうがない、少年の後を追うように閉じかけた扉を開いて廊下に出ると、足早に歩く少年にすぐに追いついて後ろを歩いた。
(あんまり、変わってないんだな。)
幼いながら凛々しい顔立ちも、取っつき難い背伸びした、でも少しだけ幼さの残る態度も、そのほとんどが、自分が見てきた彼と変わらない。
自分が今まで歩いてきた道を戻り、とうとう先程の階段の場所まで辿り着く。その階段は危ないと注意を促そうとしたところで、少年の足はそれを目の前にして止まった。
ぶつかりそうになりつつ、慌てて自分も足を止める。
少年がふと、隣の壁をゆっくりと見上げた。
珍しく愛おし気な、それでいて切な気な視線に、心中で首を傾げながらその先に目をやった。
けれど彼とおんなじ場所を見ても、傾げた首は元に戻らなかった。
真っ黒でぼろぼろなカーテンに囲まれた、錆びた大きな額縁。その中には何も、無かった。
滲んで掠れて、絵も何も消えてしまったんだろうか、しかし、ここに何かあったのは確かなようだ。
少年はただ、その絵を眺め続けた。
一緒に眺めている筈なのに、目に見えている景色はきっと全く違うものだ。途端に、更に胸が苦しくなった。
本当に、ここにいるのはリオンだろうか。そうに違いないのは確かだ、と思う。
ただ自分が、自分を知っているリオンの事を知らなすぎる。
あの時もそうだった。海底洞窟で、どうして彼が自分と剣を交えるのか。それで・・・。
知らないのはいつも自分なのだ。図々しくて、能天気で馴れ馴れしくて。こういう事なんだろうかと、今更ながらに理解した気がする。
(誰も何も解りっこないって、そう思ってたのかな。)
目の前の少年が、悔しそうに拳に力を込める。それを見ると、スタンも歯痒いと言うように唇を噛み締めた。
少年が、壁の肖像画を見て色々な表情を見せる。それがどうしてなのか、この世界に翻弄される青年には解らない。
(もう休もう。この場所から出る方法なら、その後で探せばいい・・・。)
珍しく頭を抱え、目を伏せながら足音を立てないようにその場を後にする。角の曲がり際に振り返ってみても、少年の視線はただただ額縁の中のそれに向けられていた。
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目を覚ますと、そこは冷たい石壁に囲まれた場所だった。
固い扉に凭れていた身体をゆっくりと起こし、周りを見渡した。自分の知っている家でも、昨日いた町の屋敷でも無い事に焦り、始めこそ戸惑ったものの、その不安感にかられる雰囲気と空気に、昨日と同じ世界に放り込まれたままである事を悟った。
それでも、昨日よりも落ち着いていられる気がするのは、きっとこの場所が、自分が旅をしていた時に見たことのある景色だからだろう。
そう、ここはまさにあの、オベロン社の秘密工場でしかないのだ。
崩れて海の底に沈んでしまったはずのそれは、まるで何事も無かったかのように、以前通ったあの頃と変わっていない。
ここなら知っている場所だし、何があるかもなんとなく解る。しかし背後の扉は以前と違い、どんなに足掻いても開かず、爪が剥がれてしまう前に扉から手を離して開ける事を諦めた。
早くこの場を後にしたいのには、精神が急激に衰弱していく気がすると言う理由以外に、もうひとつあった。
それは、ここがあの、海底洞窟に通じている事を知っているからだ。
あの先には、ここ以外の出口があるかもしれない。だが行こうとは思えないし、ここからその場所へ行くには少し離れていようと、これ以上近づきたくないし先に進みたくない。
扉を背にして、再び同じ場所に座り込んだ。暗闇の奥、ずっと先に1つの扉が見える。あの先には明かりの無い部屋があって、研究室のような場所に繋がっている。その奥には大きなエレベーターがあって、下に行くとそこには不自然に口を開けた通路がある。
その先には・・・。
思い出しながら少しずつ辿っていくと、段々と睡魔が襲ってきた。
もう思い出したくないと本能が拒絶しているのだろうか、抱える膝に額を埋め、スタンは重くなってきた瞼を、抗うことなく閉じた。
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重い体を固く湿った寝台から起こした。断続的に重なる恐ろしい夢に、寝ている間に冷や汗を絶えずかいていたのだろうと、そう確信した。
瞼を開くと真っ暗な天井に、自分はどれだけの間眠っていたのだろうかとぼんやり考える。普段自分を取り巻くものよりも、ずっと温度の低い風が自分の肌を滑った。
その錯覚だと感じたい感覚に、スタンはまだまどろんだままだった瞳を、はっと見開き、性急に半身を起き上がらせると、霞む瞳で辺りを見回した。
強張っていた表情が、更にひきつっていく。理解しきった頃には、顔面は蒼白になっていた。
(戻ってきたんだ。)
自分がオベロン社秘密工場で目覚める前に身を埋めていた、水浸しの街の屋敷の、粗末で汚らわしい寝台。
滲むような肌寒さに、自分は冷や汗さえかけていなかった。むしろ、この寝台は自分が横たわる前から既に湿っていた気がする。だから自分は寝る前、どんなに寒くてもかけ布団だったと思われるこのボロボロの布切れに潜り込まなかったのだ。
そこまで思い返すと、再び胸が締め付けられ、不安感にかられるのを感じた。前よりもずっと苦しく感じるそれは、スタンにとって空腹と一緒の感覚に思えた。
(まだ帰してくれないのか・・・。)
片手で疲れたように額を押さえながら溜め息をつく。早くこの妙に現実味のある夢のような何かから目覚めたかった。しかしどのように来たかも解らない世界では、帰る方法さえも解らない。それに、ここが何なのか、何を暗示しているのか、ほんの少しだが、知りたい気も、する。
寝台に腰かけたまま、ふと割れた窓の外に目をやる。以前見た光景と何かが違う気がして、立ち上がり、身を乗り出すようにして覗き込んだ。すると自分が違和感を抱いた理由を知り、新たな不安感が解決したことに安堵する。しかし、窓の外の風景は決して安堵できるものではない。
街全体を覆っていた水張りが、確実に以前よりもかさ増ししていた。しかし特に身の危険を感じるまで、スタンの頭は出来ていなかった。それに、ここが沈みきる前には元の場所に帰れる気がする。そんな根拠の無い確信もあった。
窓枠から手を離し、目線を室内へと戻すと、中途半端に開いた扉が目に写った。誰かが寝ている間に入ってきたのだろうかと不信に思いながら歩み寄り、扉を更に開くと慎重に廊下に出た。
(・・・リオンはどこだろう・・・聞いたら、ここがなんなのか解るかもしれない。)
この世界に来てから食事も全くとっていないし、充実した生活も送れていない。段々と衰弱してきている体に鞭を打ち、一刻でも早く此処から出る術を見つけ出さなければならない。
優れない体調に目を瞑り、ゆっくりと歩を進ませた。やはり階段のあの見えない肖像画の前にいるのだろうかと曲がり角から覗きこんだが、そこには微かな人影もない。
その代わり、外の水面が嵩を増やしたのに伴い、1階の水張りも倍程に嵩増ししていた。しかしこの屋敷の室内は、まるで慣れっことでも言うようにすまし顔で佇んでいる。
(この間の部屋かな・・・。)
くるりと向きを変えると、以前扉が隙間を空けていた部屋を探そうとする、しかし寝起きという事もあるのか、何故か中々思い出せず、ふらふらと2階の廊下を彷徨いはじめる。
ふと、控え目に、しかし無邪気に笑う少年の声が耳に入った。声の小さく聞こえる方へと、慎重に聞き定めながら歩み寄り、やがてひとつの扉の前に行きつく。
この屋敷には、自分とリオンの他に誰か居るのだろうか。笑い声があの少年のものだということはなんとなく解っても、その笑顔を向ける相手が誰なのか解らない。むしろ彼がこんな風に笑うのも、自分は聞いたことがなかった。
気付かれないように、そっと扉を少しだけ開く。丁度先には、目の前の”なにか”に微笑みかける目当ての少年が見えた。
スタンは目を見張った。しかしそれは、自分と旅した少年が珍しく微笑みを浮かべていたからというだけでは勿論無い。
以前来たときよりも、少年はずっと成長していた。確かに今でも、自分の知っている彼より幾分か幼いのだが、つい先刻目を覚ますまで、自分は2年程の眠りについていたのではないかと錯覚するほどだった。
そしてもうひとつは、彼の幼い微笑みが、見た事もない”なにか”に向けられている事だ。黒い影のような、人の形をしたなにか。スタンは思わず身震いした。「危ない、離れろ。」と、少しでも黒い影から少年を遠ざけようとしたが、喉から思うように声が出せない上に、体も貼り付けられたように動かない。恐ろしさに目も背けたかったが、何故か一寸とも視界を逸らすことができなかった。
黒い影と話す少年の幼い笑い声は、今ではとても恐ろしいものに感じられた。
身体が小刻みに震えているのが解る。自分の存在が気付かれる前に、この場を離れなければいけないことを察すると、固まって動きそうにない体を無理に動かそうとした。しかし、やはり予想していた通り身体は言うことを聞かなかった。
(動けっ!)
ここに自分は居てはいけないのだと、だから気付かれる前に去らなくてはならないのだと泣き叫ぶ声が心のどこかからした。それが得体の知れない恐怖から逃れるための言い訳に過ぎないのか、この世界のこの部屋か、または他の場所から送られた危険信号なのか、あるいは自分の本能がこの世界に翻弄され音をあげただけなのかは解らなかった。強ちどれも間違ってはいないのではないだろうかと、そう思う。
強張って固まった自身の身体を、無理に落ち着かせる。しかしほんの少し緩んだ瞬間、無意識に溜め込んでいた疲労が一気に押し寄せた。
実質、自分は自分が思っていた以上に睡眠をとっていなかったのではないかと思えた。今この水浸しの屋敷が夢でないのなら、オベロン社秘密工場へ行ったあれもやはり、夢ではなかったのだろうか。
そんな事を思っていると、いつの間に身体の力は抜けきっていた。大きな音を立てて床に崩れ落ちると、床はみしりと音をあげる。その屋敷中に響いたのではないかという壮大な音に、遠退きそうになった意識が逆戻りし、一瞬で我に返る。
この時、この音に肩を震わせたのは、自分だけではなかった。
絶え間なく響いていた幼い笑い声が、途絶えた。思わず顔を上げ、やっと離せたはずの目を再度あちらに向けると、蒼く輝く瞳と、顔の無い黒い影と目があった。
(気付かれた・・・っ?!)
心臓が跳ねた瞬間、自分は廊下を奥へと全速力で駆け出していた。
あちらに自分が覗いていたことが知られて、どうなるかなんて解らない。ただ、人の形をした黒い影に、自分がおかしな先入観を抱いていることだけは確かだった。
そもそもあれは、確実に人間ではない。近寄ったら自分がどんな末路を迎えることか・・・考えただけでもぞっとした。
息も出来ないまま振り返ると、先ほどの扉から黒い影が頭部を覗かせていた。来る、と悟った瞬間には、自分は盛大な音を立てて床に身体を打ち付けていた・・・前を見ず走っていた不注意で、崩れてしまっている床に足を掛けてしまったのだ。
(逃げなきゃ・・・ここから・・・。)
後ろを見る暇もなく、意識が遠退いていく。床の上に放られた自分の腕を、スタンは悔しそうに握り締めた。
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黄銅色の暖かな視界で、低い目線からあるひとつの絵画を見上げている。
美しい繊細な壁紙と、見たことのある巨大な絵画に、ここがセインガルド首都ダリルシェイドのヒューゴ邸の中であること、また、自分を取り巻く感覚で、これがすぐに夢である事が解った。目の前の絵画には、美しい女性が描かれており、幼い自分の腰には、長い間大切にしてきたような、そんな感じがする剣がかけられている。思わず、その剣の柄を包むように添えていた手に力を込めた。
音の無い世界の中で、自分の名前を呼ばれた気がして振り返った。
絵の中の女性に似ついた女性が、自分を見下ろして微笑む。彼女の名前を呼ぶと、自分もつられるように微笑んだ。
この時間がずっと続けばいいのにと、自分は夢の中で思った。
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(ここは・・・。)
膝を抱えたまま眠り込んでいたらしく、身体中が軋むように痛む。そのせいで上手く動くことが出来なかったが、足元に見えた灰色の床に、再びオベロン社秘密工場で目覚めた事が解った。
(奥に・・・行けって言うのかよ・・・。)
膝を抱える腕に力を込める。どれぐらい自分はこの世界にいるのだろうか、自分にはもう、いつもの余裕がなかった。
慣れない孤独、知らない場所、もう沈んだ筈の工場、それらに揺らぎ翻弄される心、何が起こるか解らない不安、そして・・・
(もう・・・もう、たくさんだ・・・っ!)
目の前で助けられなかった筈の親友が、自分の知らない黒い影と幸せそうに話す姿。
どうなってるんだ、ここは。できるなら、このままもう一度眠ってしまいたかった。しかし、自分はそれが一時的な現実逃避にしかなり得ない事を知っている。
こんなにも疲れを感じたことは今までにだって無いと思う、肉体的にも、精神的にも。
そういえば、久々に夢を見た気がした。ここ数日の濃紺で冷たい空間とは違う、暖かくて優しい夢。大きな屋敷の階段の先にある額縁の中の女性・・・―自分の母親の絵画を愛し気に眺める幼い自分。親友である話す剣を腰に提げ、近くには自分と隣接するべきである大切な人、絵画のそれにそっくりな女性が暖かな微笑みを自分に向ける。
しかし、主人公は自分ではない。舞台も明らかにリーネの村では無かった。
そこはダリルシェイドのヒューゴ邸とよく似ついていた気がする。そして低い視界から様々なものを見上げていた自分の視点は、紛れもなくまだ未来の客員剣士と結びつけるには幼く見えるリオンだった。
それでも、きちんと自我の意識はあった。自分がスタンであると解っていながらも、夢の中でリオンに投射されていることになんの違和感も抱かなかったし、彼にとって何が嬉しいのか、悲しいのか如実に伝わってきたため、自分の感情、表情の変化に何も疑問を抱かなかった。
音は無いのに、一瞬でも悩みなど消し去る一時だった。きっと夢の中のリオンにとっても、今の自分にとっても。
(もう一度、あんな夢を見たいな・・・。)
例えそれがこの先の現実の自分を追い詰める事になろうと、もう少し陽気に触れていたいと思うのは、おかしな事だろうか。もう一度瞳を閉じて顔を腕の中へ埋め、先刻の夢を思い出し浸り込もうとした、その時だった。
暖かな黄銅色だった筈のあの光景が、溶けるように一瞬にして青灰色へ染まった。空想の中のそれは自らの意思に反して、何故か温もりのある情景から勝手に遠ざかっていく。長い時を経た様に急速に古びていくそれは、やがて見慣れた様に思える一つの光景へと姿を変えた。
美しい二階建て構造の邸内も何故か彩度が低くなっていき、終いにはあらゆる所から水が漏れだし、湧き出した。薄く床に張られた水面から延びた不安定に崩れかかった階段。その先にある大きな女性の絵画は、滲むようにすっかり消えていってしまい、元の金色さえ解らなくなる程黒くくすんでしまった額縁だけが残った。額縁に描かれていた女性に似た目の前の隣人は、段々と黒い煤のような何かに包まれていき、得体の知れない人の形をした黒い影に姿を変える。
残ったのは、影になってしまっている隣人と額縁の前で未だ微笑み合っている、ただひとつ彩度の落ちない、幼い少年だけだった。
一瞬走った衝撃的な映像を拒むように、はっと目を見開いた。同時に重大なことを理解し、どうして今まで解らなかったのかと頭を抱えた。
あの水浸しの湿った屋敷は、疑う必要もなくダリルシェイドのヒューゴ邸でしかなかった。出で立ちが違うせいで全く関連付ける事さえ出来なかったが、確かに今となっては似通った点ばかりだ。
では黒い影は、あの女性だったのだろうか。
ヒューゴ邸で見掛けて、彼の死後、彼の望み通り自分達が救った女性。誰よりもリオンを大切にしていて、現実世界でならば、彼の帰りを今でも待っているだろう、彼の隣人。
(俺にとって粗末で冷たくに見えていたあの屋敷は・・・リオンにとってあの頃のままなんだ・・・。)
初めてこの世界に来た日、自分はリオンが隣にいる感覚が無かった。その時、見ているものを共有できていない事を察したからだ。あれはこういう事だったのかと、今更ながらになんとなく察した。
反対に、彼には自分が黒い影に見えていたのだろうかと、心なしか冷たく思えた態度を思い返す。無くはない、が、可能性としては際どい。自分の目には、リオンは黒い影に映らなかったのだから。
賢くない頭をゆるゆると回転させる。考える事もそこで途絶えた。これを知った事で何になるんだと自嘲する。
痺れた体をやっと微かに動かした、骨が軋むような感覚さえも覚えたが、なるべく体に負担を掛けない様にゆっくりと起きあがる。
早くここから抜け出す術を見つけなければ。
この世界の軸がリオンならば、自分はここにいてはいけない気がするのだ。
何より、追い詰められ、息詰まる様な環境のせいで、自分がこの場所に居たくなかった。
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最奥の扉を見ながら歩を進めたものの、重大なことに気がついた。以前にここを通ったときは、ソーサラーリングが重大な鍵となったのだ。あれがなくては効率的な移動が出来ないことに悩んだが、もう今居るこの工場はさっぱり動力が無くなっているらしく、装置が作動している気配がない。あの指輪があっても無意味だったのではないかと考え、ならばどうしようかと頭を悩ませる事から、一歩を踏み出した。
行く手を阻む溝、動かないリフト、塞がった道。単純な脳に良い案など浮かぶ筈もなくて、結果行き着いたのは溝を降りては登りを繰り返す単純な方法だった。
くたびれた骨肉はもはや疲労さえも感じられなくなり、それは精神にも言えた。返って閑散とした感覚を覚える自分自身に、心中で慰めの言葉を紡ぎ聞かせる余裕さえ残っていない。それでもゆっくりと気だるげに幅広い溝の一片を慎重に降りた。
上で見たよりも深く感じられるそれの足元は、考えていたよりもほの暗いながらはっきり見えた。曇った鉄色のリフトのレールに手をつけると、これもまた慎重に足を向こう側につき、跨いだ。一息吐くと肩元程にある段差の上に手をつき、呻き声を上げながらやっとの力を振り絞って上がり込む。そこで一つの溝を越えることが出来たが、それだけでも多大な疲労感が体を襲った。それに伴い無気力状態になりそうな自分の精神になんとか罵声を浴びせ、立ち上がって扉への道をふさぐ向こう側の木箱の山へ視線を投げた。
重い足を引きずりながら、考えていたのは故郷の事だった。しかし、脳裏に浮かんだのはリーネの村ではない。情景は違っても穏やかさは何も変わらない、クレスタの街だ。
他の英雄たちと世界を守ってから、世界には何も起こらなかった。つぎはぎの家を背に、自分がこちらを見て微笑んでいる。人型の黒い影と並び、一つの小さな煤の塊を腕に抱いて、沢山の黒い塊に囲まれ、幸せそうに、微笑んでいる。
大切だから守ったのだ。自分の大切な人がいる世界を、大切な人を失いながらも、守った。守った?
がんっ、と、頭が打ち付けられるような鈍い痛みが走る。瞬時の痛みに耐えるように喉を潰して目をきつく閉じると、瞼の裏には彩度の薄れた、でも暖かい雰囲気のまま冷たい情景が走馬灯の様に写し出された。
大きな何かから、自分は黒い塊たちを守ろうとしているのだ。しかし内のひとつが奪われ、自分は手も足も出せなかった。やがて、そのまま呆気なく命を落としてしまうのだ。既に事切れて蒼く、赤く染まった自分を、黒い影達が見下ろす。
最後に映ったのは、再び崩れそうな家を背に人型の煤達と並んで、幸せそうに微笑む自分だった。
これが何を示唆してるかなどは理解できない。
ただ、早くこの優しい空間の中に、自分は帰りたいと思う。帰って来いと、この世界の中の自分も、人型の黒色も言っている。そんな気がするのだ。
道を塞ぎ並ぶ木箱に懸命に足を掛け登ると、もうあんなにも闇に紛れて見えた扉はすぐそこにあった。
扉の先には、やはり一度見た明かりの無い部屋があった。記憶はあやふやだが、きっとここもあの頃と変わっていない。隣には鈍い明かりの漏れた扉がある。
開けたくなかった。ここを通れば、行きたくない場所に着いてしまうから。でも、ここを通らなければ、きっとこの世界は自分を帰してはくれない。
目を伏せながら扉を開ける、この世界に来て初めて光を見たが、電球は既に切れかかっていて浅暗く、光に照らされた感覚は無いに等しかった。
やがてベルトコンベアの流れていた部屋に行きつくと、再び違和感を感じた。初めの部屋のリフトと同じようにベルトコンベアは停止しており、眩しい程だった部屋の明かりも、ほとんどが切れかかっている。わずかな光で足元に注意しながら、落ちないように道を辿って行った。
迷路みたいな長いそれを歩くと、いつの間にか探していた扉は目の前だった。
(着かなければ良かったのに・・・このまま迷っても良かったのに・・・。)
探していたのに、見つかってほしくなかった。でも見つからないと辛かったと思う。どうかここが自分の知らない場所だという証明が欲しい。そうすれば、思い出して拒まずに済む・・・繰り返す不安を抱えずに済む。
身を震わせて、扉の前に立った。ここから先は一方通行なのだ、もう逃げられない気がした。後戻り出来ない気がした。
けれどここを通らなければ、あの空間に、戻れない。一緒に居たい、あの場所に・・・あの煤たちと。
体力馬鹿やら、能天気やら、良く言ったものだ。これがなければ自分はもう、この詰まるような息苦しさにとっくにへし折れてしまっただろう。
暗い研究室を通り越し、巨大なリフトを目の前にして思った。無音の室内に微かな作動音が響いている事に気付き、まだ動く事を悟っても、進んで乗る気にはならない。
いっその事、あの頃の様に全部水に沈んでしまえばいいのだ。こんな場所なんて、要らないのだから。
拳を握り締め、瞳が霞み、血が引く気がして倒れそうになるのを必死で耐えてリフトに乗り込んだ。
がたんっ、と音を立ててリフトが降下し出した。壁が、自分が居た場所が上に流れて行くのを眺めながら、後戻りできない、後戻りしても意味がないと、ぼんやり言い聞かせた。
突然、リフトが大きく低い音を立てて止まった、しかし、下に降下し終わった風に思えない。ぱっと、微かに照らしていた明かりが一瞬にして消える。それからは、息をのむ暇もなかった。先程よりも早い速度で上の階から遠のいていく視界よりも、気になったのは足掻く事も出来ない身体と呼吸が出来ない肺だった。
下の方で、何かが大音量で崩れる音がする、しかし見る暇もなかった。音の一足後に、身体に変な衝撃が走ったが、もう身体の感覚は無いし声が出ない。
(戻れないのか・・・俺は・・・。)
体力馬鹿も能天気も、今にしてみれば後先を考えずに行動する要素の助力でしかないじゃないか。
遠のく意識の中で、自分を罵った。天井を黒で閉ざしてしまうと、一瞬、あの優しい情景が再び姿を現した。
しかし、自分と並んでいるのは、自分が抱えているのは黒い人型ではない。
気丈そうな黒髪短髪の女性と自分が、金糸を持つ幼い赤子を抱きかかえて、こちらに微笑んでいる。周りにいる数人の子供も無邪気そうな笑みを浮かべる。
自分が居るべき場所だと思った。しかし、隣に並ぶ女性も、抱きかかえている赤子も、周りを囲む子供達も、
今では誰なのか、思い出すことができなかった。
===
また夢を見た。
水浸しのあの屋敷の階段の先、大きな額縁の前で、黒髪の少年・・・リオンが向かい合う自分から目を逸らしている。
屋敷に漏れ出している水は、もう2階の足もとにまで及んでいた。けれどきっと、リオンが見ている光景はこんな無惨な光景ではない。
変わっているのは水嵩だけではなかった。もうすっかり自分の見知った通りにリオンは成長していて、その姿はあの頃と、やはりまるで変わりがなかった。
俺の手はそのリオンの手を、両手で優しく包み込んだ。
照れくさそうに俯いて彼は笑う、そしてまた虚しそうに目を伏せた。
『行ってくるよ、マリアン。』
もう一方の手を、片手を包む俺の手の上に添えると、リオンは仕方無いと言う風に、俺にもう一度微笑んだ。
それを見て安心したように俺も微笑み、彼をここから送り出した。
『ええ。いってらっしゃい、エミリオ。』
やはりこの夢が終わらなければいいと、俺は彼の手を包むそれに力を込めた。
===
意識が浮上したのは、どれくらい経ってからか解らない。大切なのはそんな事ではなかった。
スタンはまどろんだ意識の中で、自分が目を開き、呼吸をした事に心底驚いた。やがて襲いかかってくる睡魔を取り払うように、腕で瞳を擦る。いつの間に身体もきちんと動いた事を認識する。
痛む体中を無理に起こした。ずっと上を見ていた所為で気付かなかったのだろうが、自分が落ちた場所はそう高くなかったのだろう。しかし、叩きつけられたリフトと床は脆くなっていたらしく、衝撃に耐えきれず所々破損していた。
意識を手放す前に身体が微かにも動かなかったのは疲労の所為だったのだろうか。しかし生きていた事が喜ばしいのかそうでないのか、今の自分には判断できない。
安心しているのか、不安なのかも理解できなかった。ただ感じたのは、あの煤の塊達のいるつぎはぎの家へ戻れるんだという希望と、そうするには思い出したくない事を無理に穿り出す必要があるという絶望だった。
意識が遠退くそのとき、大切な何かが瞼の裏を過った気がした。再び夢も見た気がする。しかし脳はそれを思い出す事をしなかった。
寝ぼけ眼を奥へやる。そこには想定通り、不自然に灰色の通路が口を開けていた。
ここまで来てしまったという後悔と、乗り越えてみせるという決意。床につく手をぎゅっと握り締め、立ち上がった。ところどころが軋んで音を上げている身体に、もう少しだと支えを打った。
この先にしか、出口は無い。進むにつれどんなに身心が崩れていくのを感じても、居るべきでない場所にいてはいけないし、自身がこの場を拒絶しているのだ。
過去があるから、と言うのもある。誰とも支え合えず、幸せを実感できない事もある。何よりも戻りたい場所があった。リーネの村でも、クレスタの街でもない。自分の大切な人がいる、命を懸けて守り抜いた平和な世界。
家族が誰だか、思いだせなかった。けれどきっと帰りを待ってる。
(俺はあそこに帰る。そうでなきゃ・・・。)
そうでなければ、彼らは誰を待っているのだ。自分が帰らなければ、彼らはどうして待っているのだ。
思い出せない家族を思うと、視界が滲んだ。色の違うその場所への境界線を息を呑んで通り過ぎると、辺りの景色は途端に姿を変える。
風も吹き通らないその場所には、追い掛けるように反響するの足音だけが残った。
===
海底洞窟の奥、広く口を開いた通りに、あの頃と変わらない後姿を見つけた。
「どうして・・・。」
昔と全く変わらないその光景に、絞り出た言葉はそれだけだった。思いだしたくもないのに、繰り返さなければならないのか?
先程と同じように、全部滲んで見えた。椿色のマントの後姿はこちらを振り向かず、肩さえぴくりとも動かさない。
「愚問だな、スタン。」
いつもの大人しい声でリオンが背後のスタンに言った。返答しないスタンに、リオンが再びもどかしそうに続ける。
「お前が行き場を無くすから、お前がこう在りたいと願ったから、だからお前がここに居る。」
傾げた首は戻らない。彼が言っている事の意味が、スタンには全く理解できなかった。ただ彼の背中が、いつもよりも小さく見える。
きっと彼も自分と同じように崩れかけているのだ。けれど、慣れ切ったようにいつもの威厳に欠けは見つからなかった。
「・・・リオン?」
「リフトに乗れ、スタン。」
「どうして?!そんなの嫌だっ!リオンが何を言ってるのか、俺・・・っ!」
「乗れ!解らないのかっ?!」
震える声で怒鳴り合い、スタンはリオンの肩が微かに震えているのを見つけると、再び吐出そうになった声を飲み込んだ。
(ああ、解らないさ・・・リオンの事なんて俺、解りっこないよ・・・!)
心中で復唱した後で、言わなくて良かったと心底安堵する。そしてこう思った事に自己嫌悪した。最低だと自分を罵り、きつく奥歯を噛みしめた。
悔しかった。やはりいつも知らないのは自分じゃないか。崩れ落ちそうなリオンに、自分は情けの言葉の一つさえ、かけられるような人間じゃないじゃないか。
悲しそうに、悔しそうにヒューゴ邸の大きな絵画を見上げる、幼い彼を思い出す。今の彼はあの少年時代から、何一つ変わってないように思えた。
「乗れ、スタン・・・。」
消え入るような声でもう一度囁かれたときには、自分は非常用リフトに向かって歩き出していた。
これでいいのか、またあの時を繰り返すのかと泣き叫ぶ声が心の何処かからする。自我は必死でこう在るべきでなければならないのだと言い聞かせた。
リフトに足を踏み入れる、もう振り返りたくなかった。あの時を繰り返すなら、彼はもう死んでいるはずなのだ、ここから離れるべきなどだと割り切るしかないのだ。
「お前には、僕を乗り越えてまで帰りたい場所があるのだろう?」
リフトの柵が閉じ始めると、崩壊寸前の感情を覆い隠すように嫌味っぽくリオンが言った。
がしゃんっ、と柵が降り切るのと同時に、すべてが脳裏に呼び起された。平和で退屈なある日、時に思いだされる冷たい記憶。
そうだ・・・自分は・・・。
全てを断ち切るように、レバーの降りる音が響いた。
低い音を立ててリフトが上昇しだす、振り返ってはだめだと、どうせ後戻り出来ないんだと自分を押し殺す。
しかし濁流に飲み込まれるこの場所が脳内を過ると、いてもたってもいられない。堪え切れず振り返り、柵に手をついて身を乗り出した。
「リオン!俺・・・っ!」
霞んだ視界では、リオンの顔もぼやけて見えた。けれどあの頃と同じように、いつも通りの強い態度でこちらを見上げる彼の目が、前と違って滲んでいるのが解る。
やってしまった。自分はまた、繰り返したんだ。あの時、大切な物を守ると、そう言ったのに・・・。
「僕は、お前のように図々しくて能天気で、馴れ馴れしい奴が・・・大嫌いだ。」
やっと思い出した事を悟り、リオンが吐き捨てるように言った。
何も変えられないのが悔しかった。自分の願いも意志も、結局それだけで終わるのが腹立たしかった。
あの時と同じようにリオンの姿は段々と小さくなり、やがては黒い壁に遮られる。
『もし彼が海底惑星でただひとり、597日間の1日を過ごしているのなら、似た一片しか過ごした事のない自分でも、どうか彼とその時間を共有していきたい。』
上昇するリフトの中で自分はやっと、平和な日々の退屈に持て余した言葉を思い返した。同時に、馬鹿みたいだとその頃の自分を嘲る。
(共有なんて・・・出来なかったじゃないか・・・。)
彼の597日間が繰り返された1年の紡ぐ数年間を、自分は眠り起き、またそれを繰り返すまでの時間だけで過ごした。彼はまた幼い頃に戻りそれを繰り返すだろうが、自分にそれは関係ない。
彼のこの世界からすぐにでも離れ、元の世界に帰りたいと切実に願った。こんな場所など要らないのだ、あの頃と同じに早く沈んでしまえばいいとまで思った。あの時を繰り返してまで、自分を待つ彼らの元へ帰りたいと思った。
踏み込んではいけないと、解りっこないと思った。見えている世界さえ違うと知った。
神の目を巡る世界をかけた戦いもその後の平和も、自分の死もその時の願いも、夢の内容もその中の人物も、すべて、思いだした。
詰まるような寒さに水浸しのヒューゴ邸、変わらないオベロン社秘密工場、不安と孤独感、崩れそうな心身、何度も繰り返す、彼の16ばかりの歳月。
(ここ、海底惑星だ・・・。)
再び瞳が一層霞んだ。自分は彼の隣人ではない。
来てはいけなかったのだ。彼を理解する人物になるには、自分では事足りないのだから。
長く上昇していくと、やがて上から光が差し込んだ。
もうすぐだと言い聞かせながら、やがて光は自分を、リフトや壁に囲まれた情景さえも飲み込んだ。
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「・・・うさん・・・父さん!」
耳に響いた幼い声に、スタンは、はっと我に返った。
声のした方へ目をやると、少年が呼び掛けに反応した事を確認し、息を切らしながら満面の笑みを浮かべた。
「へへっ、俺の初勝利だね、父さん!」
剣をこちらへ向け、肩を上下させながら言われて、スタンがばっと後ろを振り返った。
今まで構えていたのだろう剣が、遥か遠くへと投げ飛ばされ、地面に寝そべっている。それを見ると、再び少年に向き直った。
「ああ、そうだ。これでお前も一歩、英雄に近付いたな。よくやったぞ、カイル。」
ふらりと倒れかけるカイルの身体を、スタンは急いで支えた。そして剣筋の成長した息子に嬉しそうに微笑み、抱き寄せると背中を軽くぽんぽんと叩く。すると彼も一層嬉しそうに笑みを深めた。
その光景を屋上から、洗濯物をしていた妻のルーティが見下ろしている。自分と同じ気持ちなのだろう、こちらに気丈そうな笑みを投げると、他の子供達もそろりと数人顔をのぞかせた。
「おーっ、やってるな、カイル!」
浅黒い肌をした自分よりも一回り背の高い逞しい青年が、橋の先から大声を出して手を振った。
カイルがスタンに縋っていた手をようやく離し、彼の名前を叫びながら手を振り返す。
「ロニじゃないか、よく来たな。」
歩み寄り、出来るだけ高く手を上げて、その銀色の頭をくしゃりと撫でる。ロニは少し気遣うように、しかし照れくさそうに微かに屈んだ。
スタンが手を離すと、カイルがロニに飛びつく。初めて父に勝利したのだと喜々として話す義弟に、次はロニがカイルの頭を乱暴に撫でた。
自分を待っていた人たち。ここはもう海底惑星ではない。取り巻くのは陽光の当たらない、冷たい空気ではない。
自分は大切な親友を、18年前、1000年前の外殻形勢後の閉ざされた世界と同じような場所から、救う事が出来なかった。
また18年前の時のように、自分は彼に救われたのだ。いや・・・違う。
(それでも、一緒に世界を救ったんだ。)
自分たちが神の目の前を去った後で、少年少女たちが巨大なレンズの前へと立ちはだかり、仮面の少年がソーディアンの一つを、それに突き刺す光景が見えた。
その集団の中には、自分の息子たちもいる。
18年前を繰り返してなどいない。時を経て、彼は共に世界を救ったのだ。
海底惑星に残された少年を思いだすと、やはり悲壮感を思い出される事に変わりはない。
しかし時折、自分の息子が彼の手を引いて駆けだす夢を見る時がある。自分がリフトで味わったあれと同じように、白くて眩しい光に、共に飲み込まれていくのだ。
それでもやがて彼は海底の惑星へ戻る時が来る。しかし、その時の彼は自分が見知った彼では無い。そこにあるのは威厳でも、背伸びした態度でもない。
だから彼がまだ海底惑星に居ると悟っても、別段不安にかられる事は無かった。
過去を断ち切り、再び歩みを始めた彼ならば、もう海底洞窟で同じことを繰り返す必要もない。きっと足元を沈める水嵩も増える事はないだろう。
そしてそうであるならば、きっとこの星と同じように陽の光が射す日が来ると、そんな確信があるのだ。
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Lion/Stan
■解説
人型の黒い影、煤=隣人
海底惑星は自転周期597日×1年間分の、リオンの16年が綴られた世界です。リオンの心持ちと死から、遠退きたい16年を繰り返す構造になっています。
リオンは急成長していくのに、スタンが本当の世界に戻るまで19のままなのは、スタンという存在の自転周期とリオンという存在の自転周期が違っているためです。
一日の感覚は比例して進むので597日という自転の半日をスタンが眠るなら、それ相応にリオンが成長します。でもスタンの存在自体は597日の自転でないので、スタンの視点からはひと眠りしただけでもリオンが急成長した様子を伺えます。
海底惑星の間は年齢は19のままですが、スタンが煤に囲まれて自分が微笑みかけるのを見るシーンは現実世界。
その後のフラッシュバックでスタンが息絶えるのはバルバトス戦、それがなかったかのように再び煤に囲まれてこちらに微笑みかける情景が映ったのは、カイル達が世界を元に戻し、スタンも蘇った事の示唆。
ついでにたまに夢の中スタンがリオンだったりマリアンだったりしてますが、単にスタンが彼らの意識に投射されているだけです。でも夢の中でそんな自覚は投射している本人もされている側にもありません。おんなじ意思で、おんなじ過去をもって、同じ行動する感じ。再現されるのはされている側の意識行動ってだけで、投射した側は単にそれに便乗する形になるだけですが・・・^^;
ちなみに最後の方でリオンがスタンを助けた設定になっているのは、リオンが「スタンがここに来たいといったから連れてきた」ものの、スタンがリオンの海底惑星を気に入らなかったことを悟り、まあそれもそうだ、所詮は貴様も僕の隣人にはなれん、と思って、スタンを望み通り海底惑星から追い出したためです。そうでなければ、抜け出せない16年をスタンは彼と共有しなければならない事になりますしね。
さっきから当然のように「隣人」というワードがでてきますが、それは本人にとってどのようなものなのか、隣とは何処なのかはご自身の解釈でお願いします。隣人、という言葉が私は大好きなので、この言葉の意味に関しては他者に意見を押し付けようとは思いません。
その他はもう適当に読み流してください。
後書きいっぱい書くの苦手で・・・!体力が・・・もたない・・・!
本当に浅はかな脳みそというか、くだらない内容でぐだぐだかと思いきやオチも雑に見えてすみません・・・力尽きすぎ・・・
まあ大体は適当に読み流して雰囲気だけ楽しんでいただければと思います・・・文章が不器用でですみません!
不安に顔を歪ませて、よく知らない、何が起こるか分からない世界に翻弄されるスタンを描きたかったんです!←